PacKon’s blog

TとYの交換日記

今の小学生がスマホのない世界に行ったらどうなるか(その2)/面白い話はどんな話か(その3)

今の小学生がスマホのない世界に行ったらどうなるか(その2)

 Yです。今は小学生がスマホ持っているのですね。中学生とか高校生になってから持つものだと思っていました。動画サービスが、見る人の活力を奪い、それをお金に換えるビジネスであるとは、また強烈な意見ですね。動画見たり、ネット見たりするのは、頭や体、お金や場所を使わないで出来るから、楽に暇を埋めるためにやってしまうのでしょうね。僕も高校生の時に、スマホを使わないようにしようと思ってパスワードを20文字にしたりしましたが、慣れてきて20文字入力が全然苦じゃなくなってあまり効果ありませんでした。小学生に限らず、スマホのない世界に行っても全然楽しめると思います。

 僕が思ったのは、スマホ中毒の解決策です。スマホのない世界でも楽しめるのだから、むしろもっと楽しいからスマホばっかりするのをやめよう、と言っても多分、小学生は聞かないだろうなと思います。言っている内容が分かっていて、そうするべきだと分かっている大人でもスマホ中毒を直すのは難しい。スマホである必然性などないのに、どうしてスマホを選んでしまうのか。実際にスマホから離れて、必然性がなかったと実感するアプローチや、自分がスマホを選ぶ理由を分析するアプローチもあると考えました。

 スマホがなくなった世界とスマホがなかった世界は違うのでしょうか?今、想像すると二つの世界に大きな違いは感じません。でもなくなったものは現在との比較に使われ、きっと大きな違いを生むと思います。ゲームやスマホの登場で、外で遊ぶ子が少なくなると今の子どもは活気がなくて不健康だ、と大人は言います。しかし、外で遊ぶ子が多かった時には今の子どもはうるさくて周囲への配慮が足りない、とか言われていたのではないか、と思います。僕たち人間の、過去が良く見えてしまう性質は、一体なんなんでしょうね。スマホがなくなった時代には、人々はこんなこと言うんじゃないでしょうか。あの頃は、誰でも簡単に外に意見を発信できて、表現の自由があった、子どもたちにも自分で動画を作っていく創造性や活気があった、と。

面白い話はどんな話か(その3)

 建設的な議論ですか。なるほど。僕も建設的な議論は好きですが、そういう会話形式を好む人が少ないと思い、しようとしませんでした。ちょうどこのブログに書いているようなことには興味があるのですが、僕の興味が相手に合わなそうだ、というのもあり、相手もある程度似たことを考えたことがないと面白い意見が聞けないとも考えていました。でも、考えてみれば建設的な議論のテーマは多様に選べるからテーマ選びを工夫すれば、会話が楽しめそうです。建設的な議論なら、すぐに実践できそうです。

 確かに、一方が話して一方が聞くという会話の形式にこだわらなくても良いですね。前に、会話が苦手だからしりとりなど道具のいらないゲームを自分で考えて、やれば良いのではないかと考えましたが、実際にやったことがありません。何か面白いゲームはないでしょうか。ゲームや建設的な議論以外の他に思いつく双方参加型の会話形式と言えば、即興演技とかですかね。演技力のいるものでなければ出来そうです。

 次回は、普通の会話形式で自分が面白い話を出来るとしたらどんなものか、考えてみます。

面白い話はどんな話か(その2)/ 今の小学生がスマホのない世界に行ったらどうなるか

 今日はTの番です。

 昨日初詣に行ってきました。家の近くに有名な神社があり、いつでも行けたのですがめんどくさがってここまで遅くなってしまいました。毎年恒例のおみくじを引いたら大吉でした。例年ならおみくじは神社の竹に括り付けて帰るのですが、今年はコロナ対策か竹が用意されてませんでした。家に持って帰ったはいいものの、そのうち捨てそうです。みなさんはおみくじどうされているでしょうか。

面白い話はどんな話か(その2)

 一口に面白い話と言っても笑える話、知らないことをより知りたいと思える話、人を貶して自己肯定感を高める話、などいくつかありますね。いずれも話し手聞き手にとっては興味をそそられるという意味で共通しています。

 私は他人と話していても面白いと思うことがあんまりないんですね(ただし笑える話をしているとき、聞いているときは面白いです)。でも建設的な議論をしているときは面白いと思いますね。多分誰にとってもそうなんじゃないでしょうか。建設的な議論をするためにはまず自分自身が建設的に話さないといけませんが、案外それが難しいもんです。結局それができずに、議論をしてもなんか筋の通らない言い合いになって終わるか、喧嘩のようになるのが嫌で口を閉ざすみたいなことはよくあるんじゃないでしょうか。

 笑える話は職人技のようなものである気がします。私の知り合いにも人を笑わせるのがほんとに上手な人がいますが、例えば幼いころに人を笑わせて、その時の嬉しさがきっかけで人を笑わせることを日常的に考えてきたような人は多分上手ですよね。分析できる気がしませんがそれでもやってみましょう。以下は軽く考えただけなので、無理があるところもあるかもしれませんが、気軽に見てください(というか私が書く記事は全部そうです。真剣に深刻に書いたものは一つもないです笑)。

 笑える話を「例え系」「正論・指摘系」「奇人・奇行系」の三つに分けてみます。例え系は例えにより笑いをとるもので、正論・指摘系は不思議なことや納得のいかないことなどの話をして、具体的におかしなところを指摘して笑いをとるもの、最後の奇人・奇行系はへんてこりんな人や出来事を物語的に伝えることで笑いをとるものです。こうして分けてみると、例え系は一朝一夕でできる気はしません。その人独特の感性がものをいう気がします。対して奇人・奇行系は周りに変な人・変なことがあれば誰でもできそうな気がします。正論・指摘系は奇人・奇行系に加えて自分のツッコミが必要と考えると、例え系ほどではないにしろ少し難易度は高めなのでしょうか。

 笑っとるけどなんでおもろいんやろと思うことはよくありますが、毎回わからないまま考えるのをやめますね。考えてもわからないに決まってます。そんな簡単にわかったら芸人なんて職業成立してないはずですから。ほんとに笑いを知りたいならやっぱ勉強・学問として調べるしかないですよね。

トピック 今の小学生がスマホのない世界に行ったらどうなるか

 ほんとは「面白い話はどんな話か(その2)」で記事を終えたのですが、直後にふと思いついて面白そうだったので次のトピックにしてみました。

 最初の一週間ぐらいはつらいけど、慣れてなんともなくなると思います。

 以前7,8か月スマホもパソコンも使わずに過ごしていたことがあります。すぐに慣れて思索にふけることが多くなり、いい期間だったと思っています。今の小学生は物心ついたときからスマホがあるのでしょうが、別にないと生きていけないものではないですから、すぐになれると思います。むしろものに頼らず自分で楽しさを見出す力が伸びるのではないでしょうか。スマホは調べものをするには重宝しますが、小学生に適切に情報を取捨選択できる情報リテラシーがあるのかははなはだ疑問です。むしろ不正確なコメントや扇動的なだけの記事を真実と錯視したり、過激なだけのエンターテインメント動画や自分好みの似通った動画を刹那的快楽として延々と見続けて活力を奪われたりするだけな気がするんですが、小学生がスマホを持つ意義って何なんでしょうか?(私はYoutubeなどの動画ビジネスは人間の活力を吸い取り、それをお金に換えるビジネスだと捉えてます)

「原因」をゲイインと読む(その2)/面白い話はどんな話か

「原因」を「ゲイイン」と読む(その2)

 Yです。確かに原因をゲイインとかゲエインと読みますね。そういえば雰囲気もフンイキではなく、フインキと読むほうが多いです。僕が考えるに、これは音便という現象だと言えると思います。「書きて」が、言いやすい「書いて」になったり、「読みて」が言いやすい「読んで」になったりすることをイ音便や撥音便と言いますね。原因や雰囲気にも音便と同じ現象が起きているけど、まだ名前がない、と。ここで、疑問に思ったのですが原因や雰囲気という言葉は使われるようになってどれくらいの時間が経っているのでしょう?

 ネットで調べてみたところ、日本語の中には幕末明治以降に西洋の概念に対応するものを作ろうと、日本で作られた熟語、和製漢語があるみたいです。聞いたことはあったのですが、実際、例を見ると、科学、哲学、理論、思想、時間、主観、客観、方法など日常でよく使うものばかりで、驚きました。中国にも逆輸入されているみたいです。目に見える固有物や動作ではなく、力や学問や考え方など概念が多いですね。これは、古文が現代語と違って見える訳だなあ。原因や雰囲気も、和製漢語とありました。ンイやンエとなる言葉が和製漢語によって多く生まれ、それらの歴史は新しいから音便に名前はないのだと考えました。

トピック 面白い話はどんな話か

 僕が大学に入って、高校までと違って驚いたのは話したがりな人やおしゃべりな人が少ないということでした。世の中には、自分が喋るのが多い人と人の話を聞くのが多い人といると思いますが、僕は後者でした。というのも、世の中には自分の話をしたい、しゃべりたがりな人の方が多いと思っていたのです。僕は、自分の話をしても自分にとって情報は増えないし、しゃべりたい内容もなかったので、しゃべりたがりな人とちょうど利害が一致して良いなと思っていました。自分の高校にも聞く方が多いという人は結構いたと思うのですが、僕の友達にはおしゃべりで僕から話題を振らなくても会話が止まらない人がなぜか多かったです。彼らは悪口とかつまらない話をしていたわけではないので、話すことに非常に長けていたのだと今は思います。ところが、大学に入ってみると一変。僕と同じで、自分から話をしない、することに慣れていない人が大多数でした。(理系だったことも関係ある気がします)大学では、むしろ自分から面白い話をする人は希少で高く評価されます。

 そこで、自分の在り方を問い直しました。自分の話をしない、というのは相手を楽しませようとするサービス精神に欠けているのではないか、どっちも話さない謎の時間を過ごすなら自分が話した方がその時間は双方にとって良いものになるはずだ、と話さない人が多い環境に順応することを考えました。

 と思いつつも、いきなり話はできないので初めに考えたのは、相手に趣味やサークルなどを聞いてそこから面白い話を引き出そうというものでした。しかし、質問に対し答えが短く、すぐに会話が終わってしまうことが多く、やりすぎると質問攻めになってしまっていまいち盛り上がりに欠けます。話の広げ方に上手い方法があったのでしょうか。次に、自分の話をしようと思い、大学の授業やサークルなど、双方に共通する話題について適当に話してみるという試みをしてみました。しかし、咄嗟に思いつく内容は、自明で面白い内容ではないし、テストがやばいとか出席が面倒だとかそういう話がしたい訳じゃない気がしました。(程度が過ぎている具体例や自信をもって出席していない場合などは面白いこともありますが)

 話が面白い人はどのような話をしていたのか、思い返してみます。独創性があるもの、自分の意見や哲学が込められた話、好きなものを語る話、特異な体験をした話、特に話はしていないがその場のノリで色々言っている空間。それらの共通項を探すと、その人の感情や考え、知識が詰まっている話が面白い話なのではないか、と考えました。

 次回も、面白い話について考えようと思います。今日はこのへんで終わります。

「原因」を「ゲイイン」と読む

 今日はTの番です。

 照井一成さんの『コンピュータは数学者になれるのか』という本を読んでいますが、この世界に現代的コンピュータが誕生してからまだ75年ほどしか経ってないんですね。人間社会の構造を根本から変えたコンピュータですが、こんなに歴史が浅いんですね。さらに驚いたのは現実世界にハードウェアとしてのコンピュータが誕生する前に、数学的にコンピュータの計算限界がわかっていたということです。有名なチューリングなどの業績です。

 

トピック 「原因」を「ゲイイン」と読む

 私の癖として真面目に読もうとすると、「ゲイイン」と読んでしまいます。「店員」は真面目に読もうとすると「テイイン」と読んでしまいます。これは皆さんもそうなのでしょうか?

 普段「原因」や「店員」は「ゲーイン」「ゲエイン」や「テーイン」「テエイン」と読みますね。これは「ン」の音を長音や「エ」の音で代用しています。

 ここで「会員」「先生」「百名」「程度」を見てみましょう。普段の読み方はそれぞれ「カーイン」、「センセー」「センセエ」、「ヒャクメー」「ヒャクメエ」、「テード」「テエド」ですね。正しい読み方は「カイイン」、「センセイ」、「ヒャクメイ」、「テイド」です。これらはすべて「イ」の音を長音や「エ」の音で代用しています。この習慣からとっさに「原因」や「店員」を「ゲイイン」「テイイン」と読んでしまうのかもしれません。それで言ったら「要因」は「ヨイイン」と読んでしまうのでしょうか。んー、あんまり読まない気がします。「ウ」の音は大丈夫なのでしょうか。

 長音や「エ」の音で代用されている音は「ン」よりも、「イ」が圧倒的に

多いんじゃないかという何となくの推測で上のように思ったわけですが、実際のところどうなのでしょうか。

なぜ未成年者と成年者は付き合ってはならないのか(その4)

 Yです。最近、生活リズムが乱れてきています。早朝ですが、気が向いたので書こうと思います。前回のT君の記事、タイトルとは関係ありませんでしたがのびのびと書く感じが伝わってきました。何か明確な結論を述べたり論理的に根拠を示したりしなくても、思ったことを書いているうちに読む側に意見が伝わる。こういう形も実に良いと思います。

なぜ未成年者と成年者が付き合ってはならないのか

 自分はT君がその2で言っていた意見と同じ意見で、世間の反応にどういう根拠が伴っているのか疑問に思います。不倫と浮気の話のときのように、付き合ってはいけない理由を論理的に考えるのは今回は辞めておきます。この記事を見て思ったことは、未成年者が成年者よりも思慮分別を欠いていると考える風潮は果たして正しいのだろうかということです。

 子どもでも(だから?)鋭い意見を言うことはあります。(子どもは小学生以下を想像しています)しかもそれが無知によるものでなく、自分なりの根拠を持って大人を納得させるような意見にたどり着く子もいると感じます。囲碁や将棋のとても強い小学生に2,3年部活などで囲碁や将棋をやっていた大人が完敗することは珍しいことではありません。もちろん、個人差はあるし、状況によっては思慮が足りていない場合も多いと思いますが、中学生、高校生ともなれば分別のついている割合はもっと多くなります。それに、大人だって思慮に欠けた失敗を多くしていると思うのです。20歳や18歳を線引きとして一律それより下は、思慮の伴った大人だと認められないというのは正しいのか、疑問なのです。

 自分が前段落で疑問に思ったように、今の風潮に疑問を持つ人が増えることは起こっても何ら不思議ではないことだと思うのです。今の時点では僕の疑問に共感する人は少ないと思いますし、実際に運動を起こそうという人はもっと少ないと思います。やっぱり子どもは大人に比べて思慮が欠けているし、大人の世界に出すのは危険である、そのような意見が出そうです。でもそれは制度などが変わった後の次の変化までを想像している場合が多く、次の変化によって起こる次の次の変化まで想像していないんじゃないかと思います。例えば、選挙の投票できる年齢が18歳から15歳に下がったら、不真面目に投票する子がいて、名前だけ奇抜で中身の伴っていない候補が当選して問題になるかもしれないが、その問題の解決のために政治のことを教える授業が増えるかもしれない。もちろん、新しい問題も出てくるだろうし、次の次の次の……とやっていって良い結果にはならない場合もある。それらについての想像は今の僕には及ばない。でも悪い状態だっていつかは変わるから、今に問題があったら変えようとするのは悪いことじゃないと思います。共感の度合いは増したでしょうか?

 僕はもっと子どもの立場が尊重されるべきだ、とかそういうことが言いたい訳ではなく、成人の年齢が下げられるべきだ、と言いたい訳でもなく、あり得る未来を想像して楽しんでいるだけです。女性差別に対する声が高まったように、子ども差別の声も高まったりするのかなとか。大学受験の試験形式などで色々揉めてますが、もし教育改革が良い方向に進んで子ども全体の思慮が深まったり政治に興味を持つ子が増えたりしたら、教育改革の10年後くらいに子どもの権利を主張する運動が高まり始めるのではないか、とか。

 もし子ども差別の反対運動が高まってきたら、子どもという言葉に敏感に反応し、天才役といった言葉に対しても差別だとする人が出てくるのだろうか?小さい年齢に対しても運動が起こり、大人の基準となる年齢がどんどんと下がっていって最終的には幼児や赤ん坊まで大人と同等に扱われることになるのだろうか?大人を年齢で定義するのではなく、大人を定義する大人テストなるものが現れ、40歳の子どもがいたり、あるいは大人テスト浪人などというものが生まれるのだろうか?

 おっと。奇妙な世界に足を踏み入れてしまった。ここから先を想像するのも楽しそうですが、今日はこのへんで終わります。

なぜ未成年者と成年者が付き合ってはならないのか(その3)

 今日はTの番です。

 

 なぜ未成年者と成年者が付き合ってはならないのか

 結論から言うと知りません。だから関係のないことを書きます。

 森達也さんという映画監督・作家をされている方の『誰が誰に何を言ってるの』という本を読みました。街でよく見かけるけど気にしない掲示や看板が、よくよく考えてみると実は奇妙な価値観が実体化したものだという内容で、「ああ確かに」という気持ちにさせられます。誰しも一度は思ったことがあるんでしょうが、人間にはすさまじい適応力がありますので、変だったものもいつの間にか当然のもの、むしろそれがないと不安になっていってしまうんですね。引用してうまくレビューできる自信がありませんので、引用しませんが面白いのでぜひ。

誰が誰に何を言ってるの? | 森 達也 |本 | 通販 | Amazon

 先日母と一緒に祖父母の家へご飯を食べに行きました。

母「最近はみんな好き勝手自分の言いたい放題で、みんなどうかしとんがんないか思うわ。職場の若い子も上司に好き勝手言って……」

祖父「昔は家族で嫌なことあっても、そういうもんや思てみんな我慢しとったけど、今の若い子は初めから不自由なく生活しとっからそういう我慢ができんがいちゃ」

母「確かに若い子は何でも知っとって、なんでもできっちゃ。やからと言って上司にあの態度はないわ。気に入らん事あったらすぐ扉バーンて」

祖母「あらそんなことすんがけえ」

祖父「普段我慢することがないから、なんか気に入らん事あったらすぐ爆発する」

 いったい何があったのか私にはわかりませんが、おいしいごはんもこんな話じゃまずくなるなぁと思って真剣には聞いてませんでした。

 昨今若者が政治に興味をもたない、選挙に行かないと言われます。確かに若者は政治に興味持ってません。選挙も誰かに行きなさいと言われないと行かない人が多いんじゃないかと思います。そんなんだから若者はこの国のことなんて考えてない、テレビや新聞で報道されていることにも興味がない。そういう声が聞こえてきそうです。でも思うんですよ、それは若者のせいなのかって。もちろん一番の原因は本人が興味を持とうとしない、興味を持っても勉強しないことなんでしょう。でもそういう環境を作ってきたのは大人ではないですかね。もうちょっと言えば大人だってそうなんじゃないのって思うんです。子供は大人を見て育ちます。大人が政治に興味を持ってなければ、子供は政治の話題に触れずらいですし、テレビでずっとどうでもいいスキャンダルやら失言問題ばかりやってたら、そもそも政治のことを真剣に考えるなんて気にならないんじゃないでしょうか。親に限らず社会の習慣として、子供をずっとそういう環境に置かせておいているわけですから、政治のことや社会のことに目を向けないのは当たり前だと思うんです。

 言い出したらきりがないですが、もう一つ。一番大きいのは教育なんじゃないかと。若者に政治・社会に興味を持ってもらいたいなら学校の授業で国会中継見せればよくないですか?そのままだと中高生には難しいから、先生が同時通訳ならぬ同時解説して、国会論戦を生でメディアの編集を通さず見させるのが一番だと思うんですよ。教育のデジタル化なんとか言ってますが、なんでそういう話は出てこないんでしょうか。とりあえずタブレット使っとけば教育は進歩するみたいにお考えなのでしょうか?国会中継は退職した暇なおじいちゃんおばあちゃんだけのものにしておくのはもったいないですよ。

 それどころか政治の話がタブーみたいな風潮ありますよね。学校の現場でも、政治の話をするのはご法度だみたいな。学校の外でも、誰に投票したかとか話すもんじゃないみたいな。別に誰に投票したかを訊くのは秘密選挙の侵犯になりませんからね。政治の話をするときに、何を支持しているかは議論のスタート地点なんですから、それをダメって言われるともう政治の話なんてできっこありませんね。

 あーこういう話はぐだぐだとならいくらでも書けそうです。でもしまりがない文章はだめですね。それに私も眠くなってきました。おやすみなさい。

なぜ不倫・浮気はいけないのか

 Yです。今日は長かった不倫、浮気の議論に終止符を打ちたいと思います。

なぜ不倫・浮気はいけないのか

 前回、自分も相手も不満を抱かないような(以前の記事では、損と書いていましたが、感情的な側面が大きいので不満と書くことにします)選択肢を選ぶ立場に立つと、不倫をするべきでない、という結論に至りました。今回は浮気について書きます。

 浮気をするということは、恋人が自分の未来の生活空間において特殊性を持たないだろうと見込んでいることを指すと考えます。浮気された側にとって悲しいという意見は納得できます。すると浮気の場合も、自分も相手も不満を抱かないような選択肢を選ぶ立場に立つとやはり浮気するべきではないと言えそうですが、それは結局、初めに正当性を疑った、相手が悲しむからという理由で浮気をしないという結論が導かれます。初めよりは、この考えに共感できるようになりましたが、やはり僕の中に少し違和感が残ります。

 前回の記事で言った通り、結婚には、相手が自分に合うかよく見極める慎重さか、相手との生活に順応していくという覚悟が必要になると思います。(以下、それぞれのタイプを慎重型、適応型と呼びます)慎重型は、付き合い始めることにも慎重になり浮気しづらいと考えます。適応型は自分の適応力さえ高ければ、他の人とも結婚後良い関係を築けると考えて相対的に浮気しやすいと思います。カップルが浮気で揉めるのは、二人がこの二つの価値観で割れたときなのではないでしょうか。浮気をするべきでない、としたら恋人と接する方法は慎重型の方が良いということになるのでしょうか?浮気のしやすさに違いはあっても、僕は二つの価値観に優劣はないと思うのです。慎重型は結婚してから自分の想像と違う、相手の嫌な部分を見つけたときに相手のことを嫌いになりやすいと思います。そう考えると浮気はある程度、仕方のないものだとも感じてきます。

 そうなると相手も自分も不満を抱かないような選択をする立場というものの正当性や、前の記事で示した不倫をするべきでないという結論も危ぶまれます。どの場面においても正しい価値観はもしかしたらないのかもしれません。相手も自分も不満を抱かないような選択をする立場に立つと、社会的に正しいことをしやすくなる代わりに、選択肢が大きく狭まって身動きがとれなくなってしまったり、多様性が認められなくなったりする。逆に多様性を認めようとしたら、相手や自分が不満を抱く選択も時には取らなければならなくなる。

 自分はどちらの価値観を選択するのが良いのだろう?価値観をどちらかに固定する必要はあるのだろうか?そんなことを考えながら、不倫や浮気についての考察は終わろうと思います。