PacKon’s blog

TとYの交換日記

なぜ未成年者と成年者は付き合ってはならないのか(その4)

 Yです。最近、生活リズムが乱れてきています。早朝ですが、気が向いたので書こうと思います。前回のT君の記事、タイトルとは関係ありませんでしたがのびのびと書く感じが伝わってきました。何か明確な結論を述べたり論理的に根拠を示したりしなくても、思ったことを書いているうちに読む側に意見が伝わる。こういう形も実に良いと思います。

なぜ未成年者と成年者が付き合ってはならないのか

 自分はT君がその2で言っていた意見と同じ意見で、世間の反応にどういう根拠が伴っているのか疑問に思います。不倫と浮気の話のときのように、付き合ってはいけない理由を論理的に考えるのは今回は辞めておきます。この記事を見て思ったことは、未成年者が成年者よりも思慮分別を欠いていると考える風潮は果たして正しいのだろうかということです。

 子どもでも(だから?)鋭い意見を言うことはあります。(子どもは小学生以下を想像しています)しかもそれが無知によるものでなく、自分なりの根拠を持って大人を納得させるような意見にたどり着く子もいると感じます。囲碁や将棋のとても強い小学生に2,3年部活などで囲碁や将棋をやっていた大人が完敗することは珍しいことではありません。もちろん、個人差はあるし、状況によっては思慮が足りていない場合も多いと思いますが、中学生、高校生ともなれば分別のついている割合はもっと多くなります。それに、大人だって思慮に欠けた失敗を多くしていると思うのです。20歳や18歳を線引きとして一律それより下は、思慮の伴った大人だと認められないというのは正しいのか、疑問なのです。

 自分が前段落で疑問に思ったように、今の風潮に疑問を持つ人が増えることは起こっても何ら不思議ではないことだと思うのです。今の時点では僕の疑問に共感する人は少ないと思いますし、実際に運動を起こそうという人はもっと少ないと思います。やっぱり子どもは大人に比べて思慮が欠けているし、大人の世界に出すのは危険である、そのような意見が出そうです。でもそれは制度などが変わった後の次の変化までを想像している場合が多く、次の変化によって起こる次の次の変化まで想像していないんじゃないかと思います。例えば、選挙の投票できる年齢が18歳から15歳に下がったら、不真面目に投票する子がいて、名前だけ奇抜で中身の伴っていない候補が当選して問題になるかもしれないが、その問題の解決のために政治のことを教える授業が増えるかもしれない。もちろん、新しい問題も出てくるだろうし、次の次の次の……とやっていって良い結果にはならない場合もある。それらについての想像は今の僕には及ばない。でも悪い状態だっていつかは変わるから、今に問題があったら変えようとするのは悪いことじゃないと思います。共感の度合いは増したでしょうか?

 僕はもっと子どもの立場が尊重されるべきだ、とかそういうことが言いたい訳ではなく、成人の年齢が下げられるべきだ、と言いたい訳でもなく、あり得る未来を想像して楽しんでいるだけです。女性差別に対する声が高まったように、子ども差別の声も高まったりするのかなとか。大学受験の試験形式などで色々揉めてますが、もし教育改革が良い方向に進んで子ども全体の思慮が深まったり政治に興味を持つ子が増えたりしたら、教育改革の10年後くらいに子どもの権利を主張する運動が高まり始めるのではないか、とか。

 もし子ども差別の反対運動が高まってきたら、子どもという言葉に敏感に反応し、天才役といった言葉に対しても差別だとする人が出てくるのだろうか?小さい年齢に対しても運動が起こり、大人の基準となる年齢がどんどんと下がっていって最終的には幼児や赤ん坊まで大人と同等に扱われることになるのだろうか?大人を年齢で定義するのではなく、大人を定義する大人テストなるものが現れ、40歳の子どもがいたり、あるいは大人テスト浪人などというものが生まれるのだろうか?

 おっと。奇妙な世界に足を踏み入れてしまった。ここから先を想像するのも楽しそうですが、今日はこのへんで終わります。