PacKon’s blog

TとYの交換日記

大学のレポートを通して

 大学でしっくり来ていないことがある。

 レポートの問題文で解釈がいくつか思いついたとき、それらのうちどれを意図して出題したのかわざわざ教員に確かめる学生のそれである。

 もしいくつかの解釈を思いついたのなら、それぞれについて解答を与えようとは思わないのだろうか。わざわざ教員に確認しに行く学生には、問題はどこかから与えられて初めて考えるものであり、また問題をどこまで深く追及するかも誰かに決めてもらうものだ、という精神が根底にあるのではないかと思ってしまう。これは大学受験までの勉強の仕方によくあるが、大学とは他者に依存しない自由な思考を展開する場ではなかったのか。あらかじめ用意された枠の中だけで考えるのをストップしてしまう、あの受験勉強的な作業をいつまで続けるつもりなのか。

 さらにレポートの採点でよくあることだが、書いた学生としては理解した上ですぐに導き出せるものを省略したことが、採点者からすると論理の飛躍と捉えられて"教育的配慮"で減点されることがある。これ自体はレポートという形態上仕方がないと思うが、私が気がかりなのは減点を受けて、省略した論理は記さなければならないのだと学生が思い込んでしまうことである。

 あくまでレポートの採点で教員側からすると学生がわかっていて省略しただけなのか、理解できておらず根拠を書けなかったのか判断がつかないので、一律に減点しているだけだろうのに、これまた受験勉強的な発想で、「これを書かないと減点されるのか。これからは書くようにしよう」と、論理の運びとして本当に必要だからという納得の仕方でなく、単に点数がもらえないからという安直な理由で"勝手に"納得しているのではないかと思ってしまう。そもそも今の学生は(昔の学生がどうなのかは知らないが)教員によるレポートの採点を盲目的に信奉しているのではないか。

 これが例えばゼミの発表において論理の飛躍が見られたのなら、その場で指摘して説明を求めることができるし、専門書を読んでいて論理の飛躍があったならば、その穴埋めを読者自身が行う。このように説明する側・書いた側が理解しているのであれば、論理を飛ばすことはそれ自体として悪いことではないはずであるのに、レポートにケチをつけまくる今日の指導方法のせいで、ずいぶんと多くの学生が安直にも点数のもらえる答案づくりに精を尽くしているのではなかろうか。

 教員によるレポートの評価など二の次ぐらいの感覚でいいではないか。何を理解し何を理解していないのかがわかるのは自分しかいないのだ。学問をするのは自分なのだということを忘れずにいたい。