PacKon’s blog

TとYの交換日記

村上春樹の『海辺のカフカ』とドストエフスキー

 村上春樹の『海辺のカフカ』を読んだ。ところで私はあまり小説を読んだ経験がないし、そもそも読書家ではないのだが、大学の先生がドストエフスキーの『罪と罰』はぜひとも読んでみてほしいと言っていたので、この春休みは暇だし読んでみることにした。もともと気になってはいたし、本屋でたまたま『罪と罰』を見つけて立ち読みしてみると、なぜか作品に引き込まれて、あまり活字を追うのに慣れていない私でもページを追うごとに止まらなくなったので、これはいい調子だと思いそのままレジへ持っていってからは、まあなんというか長い長い『罪と罰』生活が始まった。

 話を戻し、なぜ『海辺のカフカ』を読むことになったのかを説明する。私が読んだ『罪と罰』は亀山郁夫というロシア語界隈では有名な人が訳したものなのだが、その訳者あとがきにドストエフスキーが描こうとしていたテーマが表現された現代小説の例として村上春樹の『海辺のカフカ』が載っていた。しかし私自身その訳者あとがきの内容がいまいち理解できず、『海辺のカフカ』を読むことで亀山郁夫のメッセージが少しでも捉えられるのではないかと期待して、読むことにした。

 決して私は村上春樹愛好家でも嫌悪派でもなく、あくまでもドストエフスキーの作品およびそれに対して亀山郁夫がどう考察し、何を得たかに興味があり、それを私自身が捉えきるまでの思考の整理としてこの文章を書いている。

村上春樹ののらりくらりさ

 村上春樹のファンは多いだろうし、メディアでもノーベル文学賞候補として取り上げられることがあるが、私は彼の文章にはどうも一定の距離を置き、シニカルにしか文面と向き合えなかった。ちなみにこんな偉そうに書きだしているが、真面目に読んだ覚えのあるのは『ノルウェイの森(上)』と『海辺のカフカ』だけである。しかも後者は半分しか読まずに図書館に返してしまった。よって私は村上春樹を知り尽くしていないし、少し読んだだけで批判する"食わず嫌い"であることを了承していただいてほしい。とは言っても『海辺のカフカ』は最後まで読まないと、亀山郁夫の思考を垣間見れないだろうから、明日図書館で借り直してこようと思う。

 さて村上春樹の作風だが、彼の作品は文体を楽しむものでありメッセージ性を噛みしめるようなものではないと思う。読めばすぐ気づくが、情景描写が多く特にカタカナ語の名詞がこれでもかというくらい出てくる。漢字が多いとどうしても散文的で汗臭く、文面全体がギスギスして見える嫌いはある。一方カタカナは詩的で上品で、軽快に中空を漂うような印象を与え、読者からすれば身構えずに作品に入り込める。また村上春樹は比喩や倒置法を多用するので、レトリックなふわふわとした彼の文章にはピッタリ合うというわけだ。抽象的な議論を続けるよりここで実際の例を出すのが最適だと私はわかっているのだが、悲しいことにいま村上春樹の作品を持ち合わせていない。なので私が村上春樹になったつもりで例文を作ってみた。

 

 ── 7時 20分にセットしておいたアラームを手で抱え、薄いベージュのリネンシーツの上に置く。けたたましいベルの音が僕の睡眠を遮るいつもの時刻までまだ 10分ほどある。うまく開ききらないまぶたをこすりながら僕はベッドから降り、目を覚ますためコーヒーを飲むことにした。淡い日光を反射するスチール製食器棚からコーヒーミルを取り出す。黄金色のカップ状容器から黒光りする重厚感溢れる台の間に、豆を挽くコニカルカッターがしまわれている。これはおじいちゃんが二十歳の誕生日にプレゼントしてくれた電動ミルで、僕のお気に入りだ。豆はコロンビアコーヒーのカトゥーラに決めている。程よい酸味が小麦を煎ったような香りと喉から空気となって出ていき、あとに残る渋みは僕を少し年配の大人として見てくれる。いつもの味を思い出しながら豆をミルに入れて、ふと窓の外を眺める。

 僕はこれからしばらく強い度胸を持った人間として生活しなければならないだろう。その理由はかんたんに言えば、失恋と言えるのかもしれない。でも僕はほんとうに恋に失敗したのかは知らないし、そもそも僕は恋をしていなかったのかもしれない。朝になるといつの間にか小鳥がさえずるように。誰もが疑いもせずいつもの決まったルーティンを遂行し、学校や仕事に向かうように。──

 

 ここまで書いたところで体力を使い果たした。今日はここまでにして、いつか続きを書こう。